今、建築家は・・・(「花火を見る家」に寄せて)

あんな嫁さん欲しくない

人間とは弱いものなのか、それとも強いものなのか、もちろん両面あるのだが、考えの基盤をどちらでとらえるかでその人の言動にかなりの違いが出る。私は人間とは弱いものだという基盤でものを考える。建築の形にもそれは出てくる。
最近の建築を見ると、人間の尊厳とか、命の尊さとかがもう建築を作る上で何の意味も持たないものになっている気がする。建築が近代合理主義とか伝統とかいう骨格を捨ててから、いわゆるポストモダンとかで悲愴的に浮かれはじめてから、変てこなカニやタコのような建築が出現し始めた。イカエビ建築、ナマコ建築等何でも出てきた。そのうち、クラゲ建築や海藻建築なども出てくるに違いない。
そうなってきたのは、人間が節度とか道徳とかいう骨格を捨てて、自由と、不安と、脅迫観念的な個性を得てうろつき始めてからのことだ。
実在の証を得るためには、とうてい不要なものであふれかえった海を渡らねばならなくなった。若い建築家達は果敢である。羅針盤を持たずに出航している。人間を強いものととらえているのだろう。カニタコ建築の人間の実在とは無縁の空間の中で、人間は存在をかけた戦いを強いられている。
建売りは人間を嘲笑しているし、現代建築は人間に戦いをいどんでいるし、雨露ぐらいはしのいであげるがあとは知らんとでも言いたげな乾いたカラカラ建築だったり、なぜこうも人間と建築の仲は悪いのだろうか。建築を嫁さんに例えたら、あんな嫁さんは絶対にもらわない。いくら世紀末だといっても、普段と同じ流れの一点に過ぎないはずである。
命もファッションになり、幸福の概念も決められない時代にあっても、無から有形のものを造り出す意思は、生きようとする命への意欲であるはずである。つまり建設の意欲である。建築の建設にとどまらず、命の建設にまで深めたいと思う。

「花火を見る家」について。

建築を人間の近くへ引き戻したい。ポストは水道管の塩ビ管を加工したもの。ドアの把手は普通の水道ホースで作ったもの、その他カギや室内のドアの把手、アルミ板の曲げ庇、最上階のスライド式天窓等、あらゆるところに私の手作りのものがある。高価な特注品への反発である。内装には自然の材料をふんだんに使った。それは本来下地材であるから安い。これらは予算がなくても出来ることだ。最上階は隅田川の花火を見るためのもの。その日はクライアントの友人達でこの空間が熱気を帯びる。壁面にあるいくつもある小さな出窓は開閉できる。オリジナルを沢山盛り込んだ家だ。全ての部品をオリジナルで作るのが私の一つの夢だ。敷地は8.5坪。