2016夏のクルージング(麗しの式根島)

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数日の休暇があっても、それでスッキリと澱が取れたような気持になる事は無かった。仕事は好きだから休暇は無くてもよかったのだが、しかしそれでは仕事のためだけに生きているようでそれ以外にある大事な事を見逃しているような気になるし、何よりも体よく社会に飼いならされているような気になって、とくに不満がある訳ではない空間だけれど本当はここは見えない柵で囲われた檻の中なのではないかという気分になってくる。自分は何なのか。生きるとは何なのか。自分の命にゆっくりと対峙する間もなく目の前の問題を処理するだけで毎日が終わっていく。明確に心の底からつまみ上げる事は出来ない緩いジェルのような澱は、その堆積の厚みはおそらく相当なもので、その下にまだ見ていない大事なものがあるだろうという感覚から抜け出せなかった。そんな命題は、数日の休暇で答えが出る訳が無い。このまま人生が終わっていっていいのか。そんな思いは、遠方からのうねりのようにいつも心の底にゆるい波長で打ち寄せていた。

今までは、そんな事言っても毎月のローンがある。家族を養わなければならない。というより家族は私の喜びでもあったから、それは養うという感覚ではなく家族を守りたいという生きる意味を持った明確な命題だった。だから、大変な時期であってもそれは苦痛ではなかった。子育てをしていて“自分の時間が無い“と訴えていたその時のパートナーの言葉に触れた時、私はその感覚に少しびっくりした。私にとってみれば、それらの全てが私自身の時間だったからだ。私だけの自分の時間というものは、かえって空しいものに感じていて家族がいての自分になっていた。家族を持つ事の喜びを感じていた。親になった喜びを子が与えてくれていたのだ。だから、家族を排しての自分だけの時間というものに、もはや私は何の興味も意味も感じなくなっていた。
子育ての期間は、自分の命題をひとまず脇に置いておけた時期でもあった。それは幸せな時間だったと言える。
その子育てを終えたいま、私は何なのだ、という命題がまた意識の表層に潮のようにゆったりと上がってきて、足元まで来ている。
それが不幸な事だと思っている訳ではない。何十年もおろそかにしていた鉢の水やりを始めたような気分である。または、宇宙を探索しているような気分でもある。
宇宙は、5%の見える物質と95%の見えないダークマター及びダークエネルギーで構成されているという。
宇宙には95%の未知のものがある。それと同じように私は、心の5%のものしか見えていない気がする。心の大部分を見えない重要なものが占めている。そうでなければ、心の質量がこんなに大きい筈がない。少しずつでも解き明かしていく楽しみがある。

 

昨年は、毎月台風が発生していたが、今年は6月が過ぎても台風が1つも発生しなかった。そんな年は、その後の台風の上陸する確率が高くなる傾向があると報じられていた。

大仁の花火大会が目の前で繰り広げられている。
この花火については、一昨年の長浜の花火大会で隣にいたご婦人が、この辺では一番壮大な花火であると教えてくれたものだ。西伊豆を拠点に遊んでいる身としては押さえておかなければならないポイントであると思っていた。
花火は3カ所から打ち上げられて、川の対岸に設けられた有料の席からは、視界を遮るものも無く、かつくつろいだ気分で見学できた。しかしそこに2,000円という金銭が介入していることに釈然としていなかった。ロープを隔てたすぐ後ろの土手道には、沢山の人がうごめいている。立ち止まってはいけないのだ。普段であれば私はそちら側だ。いったいどんな差があるというのだ。何がこの差を作り出しているのだ。どうやら私は、誰のものでもない河川敷に、花火の実行委員が有料席を設置していることに苛ついていたようだ。貧乏人だからかも知れない。金持ちだったら、優越感の中で快適にしていられるのだろうか。
少し酔った気分の中にいた。相棒の元気のいいゲストも参加して、花火前の夕食で久し振りに酒を飲んでいたのだ。
誰でもそうだと思うのだが、酒を飲むと現実を前にしていながら意識が他所を漂っているような感覚になる。酒を飲む癖が無くなってからは、飲んだときのボーッした感覚にあえて積極的に入りたいと思わなくなっていた。飲まないでボーッとしていた方が断然いい。若い時は、宴会ムードで仲間とともに盛り上がって、花見と同じで酒は欠かせなかったが、年のせいだろうか、何事に於いても静かに受け止めたいと思うようになった。その方が花火も桜も美しい。
クルージング休暇の1日目は、こうして大仁の花火見物から始まった。

船に戻ってからもゲストは明け方まで酒盛りをしていた。私はクオータバースに頭から入って寝てしまったが、途中でうっすらと目が覚めてもまだ酒盛りは続いていた。あまり酒を飲まない相棒は、おそらくお茶かなにかで付合っていたのだろうが、そこが相棒のすごいところでゲストと同じテンションだった。相棒は久し振りに楽しそうだった。ゲストは花火を見に来ただけで、翌日の朝には東京に戻って行った。社会の中で飛沫を沢山上げながら泳ぎ回っている元気な雰囲気は、数日間船に残っていた。

その翌々日は長浜の花火だ。こじんまりとしていて、漁港の岸壁から打ち上げの防波堤までの距離は70mほどしか無い。花火そのものにはあまり違いは無いのだが、その至近距離は、今まで見たどの花火とも違ったものにしていた。おそらく距離の2乗に比例して見え方が違うのだと思う。大仁の花火もすごかったが、私はよりローカルなこの花火がいいと思った。

2つの花火大会の間に挟まれた1日は、無人島へ行く訳ではないので2,3日分程度の食料を買出ししただけで、メンテナンスをしながらのんびりと過ごした。
貝や海藻の付着があるだろうから潜って船底を掃除したいと思っていたが、湾内の水はあまり綺麗ではない。綺麗な島へ行ってからでいいと思った。しかし相棒は違った。いつも相棒の方が正しい。多少水が汚くても航海前にするべきである。上架してボートサービスに頼む事も出来たが、費用がもったいないから自分たちでやろうと決めた事である。相棒が潜り始めたので私も潜った。半ば仕方なくであったが、潜れば潜ったで多少水が綺麗でなくても水と戯れながらのその作業は楽しい。

8月4日にホームポートの長浜を離れ、特に行き先も日程も決めていない航海が始まった。昨年のような強烈な太陽はなかった。私としてはあの太陽もいいものだったが、相棒は少しホッとしているようだった。

1日目は岩地に入った。
翌日は、以前から伊浜の集落を海からじっくりと見たいと思っていたので、波勝崎を回ってから岸よりに舳先を向けて伊浜に近づいた。出来れば港に入ってみたかったので入口まで行ってみたが、緑色に揺れる海面のすぐ下にゆらゆらと海底が見えた。キールが船底にあるヨットの入港は無理だった。舳先を急転回して入港は諦めた。入港できたら泊まってみたい民宿もあった。後で車で来てもいいと思った。伊浜を探索してみたい理由があった。

 

 

海から充分に伊浜を眺めながら、では今日は何処へ入ろうかと決まらぬまま南下を続けた。台風も少しずつ日本に接近していた。数日後には安全な港に入っていなければならない。天気図を見ると、その後方にも台風が発生していた。
すぐ近くだが小浦に入る事にした。さて何処に係留しようかと思いながらゆっくりと船を進めていると、漁から帰ってきたと思われる漁船が近くを通り過ぎる時に、そこの防波堤の先端に止めるといい、と声をかけてくれた。親切心は温かい。
今津屋という寄ってみたい食堂があった。今まで小浦に入った記憶は無いのだが相棒は20余年も前に入った事があると言う。こういう時は相棒の記憶の方が正しい。しかしその食堂は店仕舞していた。戸は開いていたので中をうかがう事が出来た。店構えも内装の造りもしっかりしたもので雰囲気が良かった。海辺だから展望も申し分ない。看板建てのメニューには美味しそうな料理の写真が並んでいた。こういう店に寄りながら航海するのも楽しいものだと思わせるのだが、こういう店が無くなるのは寂しい。西伊豆の港には寄ってみたい料理屋が無いと嘆いた事があったが、見付けたと思ったら店仕舞だった。店の女将が居たので少し話をする事が出来た。後継者が居ないということだった。
ぶらぶら歩いてもいい店は他に無い。場末の雰囲気を漂わせている食堂があり、僅かな土間に安物のテーブルを4個ばかり置いてその2つを地元のおじさん達が酒の臭いをまき散らして談笑していた。空いている席に座って私は中華丼、相棒は卵丼を注文した。お世辞にも美味しいとはいえなかった。
何処の港も日が落ちると静かで落ち着いた空気が満ちる。昼間の太陽の余韻は、夕暮れとともに海深くに沈んで行く。
全国を回っているという釣人がこの港には大きなエイが居着いているという話をしていたが、その実それが船の側を通って沖に出て行くのを見た。
夜になると相棒はエビ捕りに興じていた。コンクリートの垂直の岸壁に海藻が覆っている。懐中電灯の光を岸壁に沿わせて滑らせていくとその光束の中で光るものが2つある。エビの目であった。探すと沢山いる。船にある玉網で捕ろうと試みるが一匹も獲れなかった。

翌朝、海水浴客を沢山乗せた漁船がすごい勢いで港を出て行く。そんなスピードを出す理由があろうかと思わせる。行き先はすぐ近くの海岸だ。馬力を自慢したいのだろうか。しかしそのおかげで我が船はその波にあおられて大変なのだ。わざととは思いたくないし、防波堤の先端がいいと言ってくれたのも意地悪だとは思いたくない。フェンダーが岸壁より上になり、ハルがコンクリートにぶつかりそうで怖い。早々に港を出る事にした。

中木に寄った。海岸沿いの道路脇に店がありその後ろは崖になっている。その崖の中腹にコンクリートで架構を組んだ上に建物がある。沖からも目立つ異様な造形のそれは食堂であるようだった。眺めは良さそうだ。造形の好き嫌いは別にして入ってみようということになったが生憎と閉まっていた。崖下の店主に聞くと、切り盛りしている奥さんが腰痛だということだった。昼食は露天商のパンを買って食べた。
中木はその昔、崖崩れがあって多くの民家に被害が出た。そのために行政の罹災対策で港町には似つかわしくない3階建てのコンクリート造の団地のような建物が5棟出来た。こういうのを見る度に、もう少し何とかならないものかと思う。
次は下田に入るつもりだ。風の様子を見たい。このまま島へ行くと台風が心配だった。相棒は、数日間は島へ渡れないのだから長浜に戻って車で伊浜の民宿へ行こうかと言った。
しかし私はこのままこの辺に居たかった。戻ってまた忙しく動き回るより、前進を拒まれてもこの航海を続けていたかった。相棒は私の伊浜の民宿に泊まってみたいと言う希望を叶えようという思いやりである事は分かっているし、私自身がそう言葉にも出した事で、私の方が矛盾している事は分かっていたが、前進出来なくてもこのままこの航海を続けたい、途切れさせたくないという気持が生まれていた。戻ってしまうと探しているものが振出しになってしまう気がしたのだ。このまま海に長く漂っている事で探しているものが見えてくるような気持があった。
しかし単に忙しく動き回るのが面倒だったからかもしれない。惰性的な気分もあった事は確かだが、海がそうさせているという甘味な他力感覚に身をゆだねさせていたかった。
また、ここで引返してしまうと式根行きが無くなってしまう懸念があった。今回はなんとしても式根へ行きたかった。それが大きかったかも知れない。
いろいろな気持が混ざってそれらは言葉にならなかった。

結局、下田で2日間風待をした。しかしそれはそれでいい体験だった。
銭湯へ行き、湯上がりに出口で座っていると近くのおじさんと自然と話が始まった。相棒の特技である。おじさんのお勧めの食堂へ行くことにした。新田という店だった。お勧めは海鮮丼だったので迷うことなくそれを注文した。美味しかった。私には食道楽は全くないのだが、いい店を知った事は何となく嬉しい。
おじさん、そして我らは船で旅をしている若者、という感覚があるのがおかしい。おそらく同世代だ。
稲生沢川の河口近くにもう1つ河口を持つ細い川がある。その川は、街中に入るとその両岸が綺麗に整備されていた。昔からのナマコ壁や伊豆石の壁をもつ家が残り、それを活かした店作りと整備された舗道がいい雰囲気を出していた。柳も似合っていた。
夏祭りの一環なのだろう、川の両岸の欄干や路面にまで、ロウソクが納められた乳白色の円筒形の入れ物が隙間無く延々と並べられ、そこを歩く人の流れの中に浴衣を着た人もたくさんいた。
食後にその舗道を散策した。薄暮れが支配しイルミネーションが幻想的に浮かび上がり、ふと出会った僥倖に素直に酔った。

翌日、港の中は静かだが、外海は台風の影響で強めの風が吹き渡っている。危険な事はしない。我らの決めごとだ。一日船内でのんびり過ごした。

 

式根島は、伊豆諸島の中で唯一山がない。他の島は、海面近くの靄を抜けた上空に山の稜線を立ち上がらせているのだが、式根は水平線からひと上がりした上は平らである。いまその全ては靄の中に埋もれている。そのため、かなり近くまで行かないとその島影は見えて来ない。下田を出て新島の影が少しずつ大きくなり、中間あたりまで来ているが、そのすぐ横にあるはずの式根はまだその影も見えない。
だからと言おうか、靄の中からその影がうっすらと見え始めると 「式根だ!!」 と思わず声が出る。
ずいぶん昔に行って、もう一度行きたいと思いながらもなかなか行けなかった式根である。新島に近づき島影がだいぶ大きくなってきたころ、やっと水平線上に影を見せ始めたのだ。
今回は、実は感嘆符付の言葉は何も出さなかった。子供っぽさに冷ややかな視線を送りそうな相棒の手前、動じない大人を演じている。しかし心の中では「式根が見えたぞー!!」と叫んでいるのだ。私は、どうやら大人になりきれないようだ。

1島2港という原則のため、式根は小さな島であるにもかかわらず2つの港がある。ヨットを港に停泊させることも出来ないことはないが、何と言っても魅力的な錨地となるのは自然の入江である。
岩の向こうにマストの先端が見えた。そこが目指す入り江だ。すでにヨットが一艇先に入っている。
吹之江は、狭い入口を入ると5艇ぐらいのヨットがなんとか錨泊することが出来るぐらいの広さの美しい入江である。艇速を落とし、慎重に進めて行くと、周りは岩に囲われて外海の波を消してくれている。その静かな水面に澄んだ底が揺らいでいる。
海も陸の緑も空も、何とも美しい。美しさに見入っている間もなく岩に飛び移って舫をビットに取った。一息入れて狭い入口の方を振り返るとその向こうには少し霞んで新島がゆったりと横たわっている。

最後に式根島に来たのは、まだ数年前のような気もするのだが、目を瞑って思い返してみると、その間には星のようにいろいろなことが散りばめられていた。女性陣もいてにぎやかに来たあの頃は、皆まだ独身で、その先にある未来に少しの不安を抱えながら元気に輝いていた。もう、すごい昔のことなのだ。そこには40年近い戻れぬ歳月が天の川のようにゆったりと横たわっている。たまに気が向いた時に来てくれる相棒の愛娘のCちゃんは、あの頃にはまだこの地上にいなかった。今では麗しい女性となっているというその現実が、あの頃にはもう決して戻れぬという母性のような柔らかな諦観となって私を包んだ。時の流れにあらがえずに呆と眺めている私を、もう眠りなさいと諭されているようだ。
しかし島じたいは、あの頃と全く違わぬ美しさでここにある。あのころの時空が蘇って周りに浮遊してようで不思議な気持になった。
あれも、すごい昔のちょうど今頃だった。下田を夕刻に出航してナイトクルージングで式根島に向かっている時だった。海面近くは靄が沈殿し、水平方向は白濁の闇だったが、その層は薄く、上空は自分を中心にした大きな円形で空が黒く抜けていた。そこは満天の星だった。「アッ 流れ星!」と誰かが叫んだ。その後もかなりの頻度で流星があった。僅かな時間差で3本の流星痕が現れたこともあった。それがペルセウス流星群であることは後で知ったことであった。

 

その日は、入江で泳ぎ、小さな砂浜に上陸した。幾重の回想の中のこの入り江の海水は何処よりも透明だったが、泳いでみるとそれほど綺麗ではなかった。台風の影響かもしれないが、こんなもんだったかも知れない。
夜になり、気付くといつの間にか隣に大きなモーターボートが入ってきていた。船内の灯を煌々と照らしている。その電源で発電器のエンジン音が静かにうなる。キャビンとデッキと運転席の3層に10人ほどの男女が静かに動き回っている。不思議と話し声はあまり聞こえない。船底にも灯があり海底を幻想的に照らし出していて、船が宙に浮いているようにも見える。宇宙船のようだ。こっちは星空でも眺めたいのだが、灯を消してくれとは言えない。ちょうどペルセウス流星群が見える頃なのだ。
せめて海底を照らしているライトだけでも消してくれないかと思ったが、騒ぎ立てている訳でもないのでこちらが我慢するしか無いようだ。
朝起きると、そのモーターボートは居なかった。早い時間に出航したようだ。台風を警戒して早々にホームポートへ戻ったのかも知れない。

海岸線からひと上がりすると、全体としては平らであるが自然の起伏はあった。対岸までゆっくり歩いても30分程だ。その範囲に集落があり、民宿や商店がある小さな可愛らしい島だ。周囲は綺麗な海岸線に囲まれ、海水浴が楽しめる砂浜も数カ所ある。海岸線には露天の温泉もあり島の印象に彩りを添える。その中でも地鉈温泉はその景観が雄大である。
島内を散策したいと思ったが相棒は歩きたくないようだった。膝の調子が思わしくないようだ。曲げる度にポキポキと音がすると言っていた。ホラと言って曲げてみせた。耳を近づけなくてもポキッと聞こえる。可笑しかったが笑うわけにはいかなかった。
地鉈温泉を再訪したかったが、そこはこの入江の反対側だ。船で反対側にある港へ行ってみることにした。そこからなら近い筈だ。相棒も行く気になるかも知れない。とりあえず何処かへ行きたかったので先ずは隣の野伏港へ行ってみることにした。高速船が入っていた。野伏港に入るのは初めてだった。忘れているだけかも知れないが。ヨットの停泊も可能なようだ。
反対側にある式根港にも一度も行ったことが無い。これは間違いない。紙のチャートしかない頃は、式根港には入れないと言うのがヨット仲間の言い伝えだった。その実、式根港は、おそらく目視だけではとても入ろうとは思わない港であった。しかし今回はNewPecがある。岩だらけだがヨットも通れる狭い水路があることが分かる。いろんな港に隈無く訪れてみたいとも思っていたのでいい機会だ。それに式根港からなら地鉈温泉は近いはずだ。
水路から鋭角に方向を変えて式根港に入った。若い漁師に係留してもいい所を聞いたが要領を得なかった。新米の漁師のようだった。防波堤の先端が空いていたのでとりあえずそこに舫を取った。まずは1人で港の向かいにある足付温泉へ散策に行った。船に帰ると相棒は防波堤の電信柱の根元に座って寄りかかり、その細い日陰の中に足をそろえて休んでいた。

仕方無しにかも知れないが、相棒は歩く気になったようだ。足付温泉から一上がりして町中をしばらく歩くと地鉈温泉の上に出た。温泉は遥か下の波打ち際にあり、そこまで降りていく急な階段は、両側を切り立った崖に挟まれていた。V字の大地の底の一番下の海との接点にその温泉がある。その景観は印象深い。地鉈温泉という名称は、鉈で割ったようなその地形を現していた。
しかし海まで下りるその道は、すっかり綺麗に整備されていた。
昔来た時の記憶では非常に荒々しい印象であった。自然の状態の中で獣道のような坂があっただけだった。急な個所は階段状になっていたが、その作りは角に丸太を使って段々状にしたもので、踏面の土砂はすでに流出したりしていた。それが九十九折につながり遥か下のV字の底まで続いているのだ。麗しい島という印象は、小さなかわいらしい島なのであるのだが雄大な荒々しい自然も抱えているということによるものであることが大きい。それに加えてヨットにとっては美しい自然の錨地があるのだ。夜ともなれば満天の星となり、それに負けじと海には夜光虫が乱舞する。ヨットの聖地と言われる所以である。
ところが、階段も整備され道幅も広く綺麗に作られていた。綺麗に整備された観光地となっているのだ。せっかくの雄大さが人間に媚びて綺麗に納まってしまっている。しかしそれも善しと思ってしまった方が楽だ。
その日の温泉の温度と海水の混ざり具合で入れる場所が変わる。行った時は小学生の団体が来ていて賑やかだった。ちっちゃな体で動き回っているのが可愛らしい。
滑らかに浸食された大きな岩の間に23人が入れるような湯釜がいくつもある。波頭が上がる先端は子供達の優先場所だ。生命力の順番で大人達は1つ下がった静かな湯釜に入っている。私もせっかく来たのだからと思い、すでに大人が2人入っている湯釜に入った。そこは海水が入れ替わることがないので鉄分で茶色く、入ると5センチも下は見えなかった。
そこの岩は特に大きく3m程の高さがある。相棒は、そのてっぺんに座って見ているだけだった。相棒は海に潜ってサザエやアワビを見付けても採ろうとせず、どこか達観している所があった。

町営の温泉に入ってから船に戻った。今日は式根港で泊まろうと思い舫を固めたが、船内に入ってみると想像以上に揺れが大きい。後続の台風の影響が出始めているのだ。防波堤の先端では波を消しきれない。もう夕刻だがこれでは眠れないと思い野伏か吹之江に戻ることにした。暮れるのは早い。野伏の岸壁が空いているのが見えたが、ティラーを持つ相棒はそれを通り越して吹之江に向かった。薄暗い中で吹之江に入るのは危ない。理由は言わなかったが、「判断が遅い!」という言葉をドンと石のように置いた。少し怒っているようだ。その通りだがあの揺れの中で一晩過ごすのは最悪だ。
相棒の苛立ちは、私を気遣っての伊浜の民宿行きの提案の話を、私が何も理由を言うでも無く流したことで、男としてあるまじきその非一貫性を不快に思ったはずであり、それが繋がっていたからなのかも知れなかった。
または、風が強くなるのは分かっていた。相棒は、その上で私の判断に任せたのかも知れない。または、結果論でそう言っただけかも知れなかったが、それは私には分からなかった。

翌日は懸念通り風が強くなり出航は諦めた。安全第一だ。吹之江での風待となったが、結局吹之江に戻ったのは正解だった。この憧れの吹之江ならば何日停泊しても良かった。今日は一日中船内でのんびりした。今日はちょうどペルセウス流星群の最大日だ。式根で見ることが出来る。日程的に無理かと思っていたが、実は式根でペルセウス流星群を見ることはひそかに望んでいたことだった。
しかし相棒は、「昔見たペルセウス流星群のように、思いがけずに見たものこそ価値があるのだ。予定してお膳立てをして見ても、それは確認に過ぎない。」と言った。
私は、「俺は何度でも見たい。生きているうちにあと何度見れるかと思う。」と言った。
いずれにしても思いがけなく実現した。今は雲が多いいが夜が楽しみだ。

この風の中を抜けてこの入江に入ってくるヨットがあった。少し雑にたたまれてブームに縛られていたセールは厳しい状況をセーリングでくぐり抜けてきた事を物語っていた。マストやリギンにもつい今しがたまで極度の拘束の直中にあった緊張感が残っていた。クルー達は、安堵感で上気し皆無口だが動きは速かった。

その夜は曇が切れることはなかった。

 

翌日は風も納まって静かな海になっていた。
よし、後は帰るだけだ、と思った。

式根を出航した時は、当然途中の港で一泊するつもりだったからそれほど早く出航する訳ではなかった。しかし、後は帰るだけだという気分がだんだんはっきりしたものになってきて、途中で何処かの港に停泊するのも面倒になってきた。

ホームポートに戻った時はもうすっかり夜もふけていた。それでも14時間の航海だった。ホームポートに到着しアンカーを取ると、相棒は大きなアクションで握手してきた。私も慌てて相棒の分厚い手を握った。
式根はヨットにとっては遠い島だった。その島へ一発で行こうと思えば行けるのだと分かったのがすこし嬉しかった。計算すれば分かることであるが、実体験の有無の違いは大きい。実学は存在である。

 

哀しみはちっとも小さくなってくれないし、何かを探せた訳でもない。しかし、つまみ上げる事が出来ない澱は、その堆積量を少しは減らしてくれたようで心が幾分軽くなったような気もする。心の壊れた部分は、地表が壊れて地層があらわになったようなもので、心を探る手がかりになる。修復することばかり考えなくてもいいのだと思った。
航海後、相棒からは、「久しぶりに長時間海に居られてなんかほっとしている」というメールがあった。何かを取り戻した安堵感かもしれない。伊浜行きを曖昧に流したことも、結果的にその方が良かったと思ってくれているようだ。相棒の優しさだろう。
私も同じような気分だった。私には、ゆっくりと生きる事が大事なんだと思った。なんだかつまらない落としどころだが安堵感があった。前進ばかりよりゆっくり生きることは損でも何でもないことなのだと思った。
今までも、ワンデークルージングで気分の表層を洗うことは出来た。それがあると無いとでは日常に大きな違いが出たと思う。
今回は2週間の休暇だった。浄化が表層より少し深くまで沁み込んでくれた気はするが、本当はもっともっと時間が必要なのだろう。

 

終り